記録

 特に書くことがないのですが、とにかく書きたいので今何も考えずにキーボードを打ち付けています。自分にとっては割と楽しいことなのです。ただ、これは韜晦でも謙遜でもなんでもないのですが、上等な文才とはいかないのでそれがそのまま読み物として耐えられるものになる確率はかなり低いです。たまに歌詞の一部になったりするのですが、まあでもその程度です。

 全ての時間で自分と話している感覚は実はまだ続いています。主治医はいつもそんなことに関心がないように、或いは関心があるように聞いていて、私はそのように午前を無駄にするのです。そのまま初診の邪魔をする自覚がありながら次の予約を取り付けてグーグルカレンダーに『莎奈:病院』と書き込んだのですが、もうすぐアルバムが出ますね。それに気付きました。

 たくさんの人と出会うと、自分がどこにも属せない人間だということがよくわかってきます。イベントがたくさんあって、自分がたくさんいました。率直に面倒な人間だなと自分で自分に思いながら、それでも片手間に初学者向けのラカンの新書を読んだりして、何かそれで防衛しているつもりでした。
 それはラカンのあの意味不明な精神分析が精神安定上とてもよく役に立つということではなく、つまり私にとっては、”難しそうなことを考える私が好きです”という自己表現かもしれなかったのです。そんなの誰も見てないのですが。
 ここでこうやって書いているのも、そういう風に見られたいという自分なりの他者の欲望。どうやっても逃げられないから困ってしまう。いや、困ってはないか。そういうもんだし。

 構造に埋め込まれた私だから、この私の完全な自由意志は多分なくて、ある程度は構造が決めてくれている。はず。でも、自分で選んでいるような気もする。この感じはどう処理したらいいだろう。
 だからいつも誰かの『自分が好きなことを自由にやればいいと思う』の無責任さに放置されて、好きなことを自由にはやれないと思っている自分がいる。それなのにきっと、自分も他人に言っているし、本当にそれを望んでいる。「自分の為にやれ」って自分が言ってる気も、言われている気もする。
 さらに言えばこんな自己矛盾的な何かも、誰かの整地された言葉で整頓させられる。それを想像して腹が立つ。悲しい。
 ただなんとなく、世界よりも言語の方が先だと言った方がかっこいい気がしていて、自分でもそう思おうとしているし、その自分にも気づいている。本当にどうしようもなくそういう言葉が好き。結局私の血にはそういう言葉たちが流れている。

 自分を支えている、ありえないくらいのかっこいい言葉たちは、そういう意味では本当に言語によって世界が立ち上がらせてくれている。意味とか歴史とかそういう建て付けを外せば、それは多分端的に言えば、フレーズとして綺麗、かっこいいくらいのことで、恐らくかなり雑に込み入った世界観と毎日変わる顔色で、私は私になっている。そして昔もらった大嫌いな言葉たちが私をつき動かしている。
 だからそのせいなのだ。私がうまくいくのもいかないのも。