昔から小難しいように見えることが好きで、小学生の時、二次方程式の解の公式(x = (-b ± √(b^2 – 4ac)) / 2a)を見てかなりときめいたことを覚えている。特にルートがかっこよかった。
この”ルートがかっこいい”みたいな感性のまま私は大人になり、そしてあろうことか現在にいたるのです。その結果、2026年のバースデーワンマンのタイトルが『対象a』となってしまいました。

対象aというのは調べれば調べるほど意味がわからなくなる謎の概念で、現在でもちゃんとした意味は闇の中です。学のないバンドマンの精一杯の解釈としては、好きなものを好きな原因として後付けてしまう部分みたいな感じなのですがどうなんでしょうか……。※

ライブなどの感想と一緒に本当によくいただく言葉として”うまく言語化できなくて”とか”語彙力がなくて”とか、そういう言語能力の無さによってライブ等の魅力や感動を伝えられないもどかしさみたいなものを、よく受け取ります。
私はそれらをzipファイルを解凍するような心持ちで、伝えようとしてくれること自体を受け取って、嬉しく思ったりしています。そしてそもそも私は、言語化自体を神格化できていないのです(時々しますが)。
たまに言ってるのですが、上手に言葉にしなくてもいいし、むしろ言葉にした瞬間にこぼれ落ちるものもあるので、言語化しないことによる良さというか、”体験自体があるという美しさもあると莎奈は思っている”ということもお伝えしておきます。
ですので、語彙力の無さなんて瑣末なこととも言えます。むろん伝えたいという思いとは裏腹ですが……。
私だってユナイトを続けてこれた理由さえ”メンバーが最高”とか”環境がいい”とか”ファンに感謝してる”とか”もう年だし新しいバンド組む体力ない”とか色々言語化できますが、そんなの全部合わせたって完璧な言葉になってる気がしません。その時々に合わせて最適っぽいことを喋ってるだけです。
私は私だからユナイトが好きなんです。そんなことが沢山あります。

私は数年前、『花晨』で”君の理由になりたい”という詞を書きました。理由というのはほとんど言葉みたいなものですが、言葉になる前の感覚の部分にも理由があったりします。
私たちはどうしたって明確な原因とか理由みたいなものが欲しいときがあります。不在の不安を埋められるなら、私の何かを理由にしてください。顔でも声でも才能でも。
むしろ莎奈の存在の理由なんて殆どがそれかもしれません。それがだんだんわかってきました。
このようなことを考えていたので、バースデーセトリの最後の曲に『花晨』を選びました。言葉にすれば大事なものが溢れてしまうこともわかりつつ、それでも言葉にしたつもりの曲です。
小ネタとしてオープニングSEをカプースチンのエチュード『Rêverie』をBotanicaぽくアレンジしてみました。その次に続くドラムソロも同じくカプースチンの『Toccatina』のアレンジです。ただ好きな曲を好きな形式でやるためのわがままゾーンでした。
Botanicaはその後の『栞』の前奏アレンジでも引用されていて、好きなジャンルになりつつあります。

毎年言っている気がしなくもないですが、生まれてきてよかったです。私たちは選んで生まれてきたわけではないけれど、それを引き受けるだけの幸福をあなたにもらいました。
私からも与えられていたらいいのですが。
人間は言葉でしか世界を語れないのに、言葉と世界にはかなり距離がありますよね。わかりやすく言うと、推しの尊さを言語化しようとしても圧倒的に到達できないあの感じです。むしろ言葉を重ねれば重ねるほど気持ちから遠ざかっていく気すらする。これは語彙力が足りないのではなくて、言葉にはそもそも限界があって世界には絶対に到達できないという性質があるのです。
この”言葉で説明しようとしてもあぶれてしまう世界”を裂け目とか言ったりします。これは”言葉を覚えた”ということによってそれぞれ必ず生まれます。そして、この裂け目によって欲望が起きてしまいます。
次にわかりやすく推しの例でいくと、対バンのライブかなんかで最初に推しを発見ときに”へーこんな人いるんだ”となるとします。その次に”なんか気になるな”となります。この時点では好きとか嫌いとかそういう意味になっていません。これは自分が持っている裂け目をその人の何かが刺激してるから”引っ掛かり”が起きます。
帰宅中、”あの人名前なんなんだろう”となるとします。このあたりで”幻想”(これも用語なのですがあまり気にせずに)が生まれます。それは、もっと知りたいかもと思う気持ちです。もっと言うと”これを知れば私は満足できるかも”という風に一旦解釈します(そこまで思わねえよという感想はよくわかりますが、一旦そういう感じになります)。
調べていく間に””やっぱり”この人の顔好きかも”となり、推しになります。
この”顔が好き”というのは一見好きになった理由とか原因に見えますが、ラカン(この概念の生みの親、全ての元凶)はそう考えません。顔が好きになったのは、最初の”引っ掛かり”がその理由とか原因として顔を指示したからだと考えます。捏造みたいなものです。
この場合、顔が対象aとなります。
最初から顔が好きだったからでも、引っ掛かり君が顔を欲していたのでもなく、一番理由っぽいものに座らされたのが顔だったというだけです。だから対象aはときどき顔になったり声になったり腕になったり背丈になったり、もっと抽象的に雰囲気とか才能とか性格とかに入れ替わっていきます(万能なものとして神託というのもある)。そしてたまに対象aが固定されていない場合もあります。これが、”よくわからないけどなんか好き”みたいな状態です。
そして多くの場合言語化というのは、対象aを固定させる営みとも言えます。どうして好きなのか知りたい伝えたい、そういう気持ちで固定化へ進めます。けれどわたしは実は、対象aを大したことないものだと思っている部分もあります。むしろ対象aに回収しすぎると体験が死ぬのではと大袈裟に思ったりもしています。
私はそういう意味であらゆる理由とか原因をほとんど放置したままにしています。理由なく惹かれるのは構造として自然だと思っているからです。
ただ対象aがないと不安に感じる人もいます。そういう人の対象aに私の何かが居座っているのも嬉しく思っています。










