歳をとりました。一応これでも年齢非公表です。おそらくそれなりの年齢な気がしています。
1日目を日本語のHIPHOPというかラップというかそういうのでまとめてみたんですけど、意外だと思う人もいたようです。実はHIPHOP好きです。日本語も英語も。ラッパーたちのあのバイブスというか雰囲気というか空気が私の全くの逆側すぎて少し憧れもあり聴くとテンションあがります。
でも特典会の時に『ニートなニートぉお』とか流れてきてヤバいと思ってました。曲はかっこいいです。
2日目のはめちゃくちゃ好きな世界観と音楽性のバランスって感じです。「こういうことがやりたいな、でももうやってる人がいるな、真似してもこれは越えられないな」ってものばかりです。
一日目のタイトル『新月』は月が見えない状態のこと、二日目のタイトル『月暈』は月が明るく輝くときにたまに現れる周りの光の輪のことです。
実は『月暈』だけが決まっていて一日目を決めあぐねていたんですが、対照的なワードとして新月を選んだだけで、特に意味はありません。自分でいうのも奇妙ですが、私がつけてるので意味ありそうですよね。
割と昔から自ら光れない月にシンパシーがあって、ステージ上やその他で色々と輝かしく扱ってくれるときも、”反射してるだけでは”と思うこともままあったのです。それはなんというか、まさしく(literary)スター性みたいなものに対するコンプレックスだと思っています。
内容としては二日間いただいたので、自分の二つの面を出してみました。バンドの装置としての莎奈と、個人として多分みんなの中にいる莎奈。どっちも自分。ユナイトのライブ来てくれている人ならわかってくれると思います。
少し前はこの装置としての自分が難しかったし、個人としての莎奈に自信がなかったので両方持て余して空中分解状態だったのだと思います。今は多少そうでもないようです。
この二日間のライブを終えて私が何より驚いたのは、二日目の演奏が思ってたよりも感傷的にならなかったことで、普通に楽しめたしものすごく言葉を選ばずにいうと全体を通して冷静でした。純粋に演奏をしていたんだと思います。
遥か昔に二日目のようなセットリストのライブをしたことがあったんですが、その時は『どうせわかってくれないから最初からわかってもらう気がないライブにしよう』というとてつもない幼い動機があったんですが、今回はどちらかと言えば『こんなライブでも莎奈なら許してくれそう』やむしろ『こういうライブを期待してるかもな』的な自意識過剰な動機がありました。これは今思えばかなり進歩したなという感じがします。
とは言えバースデーライブの1週間前くらいからかなりナーバスになっていました。なぜそんなに気負っているんだという感じだと思いますが、大袈裟に言えば青色の人生を背負っている感が年々増大していて(近年毎年言ってる気がしますが……)、一月三十一日がただの日ではなくなってしまったのです(で、これは蛇足なのですがきっと私が産まれてからの母の気持ちもそうだったのかなと最近は思うことがあります)。
ある意味では何でもない私を、ここまで祝ってくれることに本当に感謝しています。毎年言ってる気がしますが、産まれてきてよかったです。何にも知らないくせに絶望してたかつての自分に「そのままでだいたい大丈夫」って言いたいですね。